2012年6月3日日曜日

Interwoven By Moto Shimon: 2011年8月


2,3日前に、もし晴れて身体がきつくなかったら、久しぶりに逗子から葉山へ行こう、と妻と話していた。県立美術館のすぐそばにある「山口蓬春記念館」へは以前から行きたいと言っていた。暑さと雨のどちらかが襲ってくるならば、夏の逗子を歩くのは厳しいな、と考えていたのだが、ちょうど雲が出るらしいということもあって、思い切って出かけることにする。

距離はたいしたことはない。家を出て、40分後には、逗子の街を歩いていた。天気予報が外れたらしく、太陽が幅を利かせている。 駅前には、ここから三浦、鎌倉へ散っていく観光客や地元の住人たちが列をなして、バスを待っている。駅前商店街には狭い道に、混雑待ちの乗用車が詰まっている。昔ながらの魚屋さんなどが軒を連ねている。駅前からなぎさ通りに入って、詰まっている自動車群をかき分けて進む。 途中、すでに役割を終えたような商家に蔦に絡まっていたり、材木屋さんの倉庫に夏休み宿題用の廃材が固められていたりして、目を飽きさせない。日陰を縫うように、蕎麦屋に到達して、静かな室内でしばし涼を取り、天ぷらせいろを食べる。

バスには海水浴客が子供達を連れて大挙押し寄せてくるのかと思えば、逗子の海岸では、むしろ成人したペアやカップルが多いらしい。小さな海岸がたくさんあるので、バスの客はそれぞれの海岸で振り落とされて行くだけだ。


ティンは、政府軍の制限された道路を下回る

三ヶ丘海岸と呼ばれているのは、すこし切り立ったいくつかの崖を背景とした海岸だからだろうか。山口蓬春の自宅だったところが、現在の記念館として再生されている。名だたる人びとの邸宅を設計した吉田五十八によってここの画室が作られている。このような役割を持っていた場所の含んでいる過去は、訪れる人びとの想像力を刺激して、ここに座れば、あたかも絵を描く主人公の気分になれるかもしれないといった気持ちになれるが、おそらく画家自身もここに座って、気力充実していた時と、消沈していた時とがあったに違いないことを想う。

桃の下図だと思われるが、すっと強い線が引かれている写真が展示されていた。この下図段階の強い線が、今回の下図展では、いたるところに見ることができた。この強い線に多くのことが現れているように思えた。絵の性格として、常に正攻法で、本質に肉迫する画法を確立している。この姿勢は、一貫していて羨ましいくらいだ。

今日の一枚となると難しいが、「市場」は好きな一枚となった。下図とはかなり違った趣が反映されていて、途中で何が起こったのかを想像させる。白いテントがキイポイントとなっている。これによって、市場が成立していると同時に、上からみると、隠されてもいるのだ。何が隠されているのか、それは人びとの表情から読み取るよりしょうがない。


マクファーランドハウスの歴史ナイアガラ公園ナイアガラ·フォールズオンタリオ州

記念館をでて、御用邸へ向かって散歩しようという予定であったが、今日の陽は予想外の強さだった。それでも、少しだけでも海に出てみようということになって、県立美術館の横の道から下る。この道が長く続いて、いつも通るたびに、海に出る期待を数倍に拡大させてくれる。

海の持つ包容力は山彦たるわたしにも理解できるが、海彦たる妻は、海を見ていると、もっと違う感情を持つらしい。ほっておくと、3時間くらいは黙って、見つめている。

海岸にも成熟ということがあるのだと思われる。まず、子供が少ない。すでに夏休みを終えてしまったのだろうか。また、食べ物屋さんが少ない。海水浴客もいまは車できてしまう時代だ。シャワーも家に帰って浴びればよいらしい。ということで、いわゆる海の家というものも少ないのだ。いかに少子化の時代であっても、海水浴場がこんなにも様変わりしているとは思わなかった。

靴を脱いで、足だけでも入りたいと思う海岸であった。実際に、洋服のままで飛び込んでしまった人もいるくらいだ。押し寄せる波の規則正しい音と、水辺から吹いてくる涼しい風に漂って、しばらく頭のなかを空っぽにすることに執心した。すでに空っぽであったことは、忘れたままだったが。


ニューヨーク州のショックプログラム

昨夜読んだ海に纏わる小説を思い出していた。貧乏の物語である。けれども、貧乏というものを「風」の貧乏と見るか、「火」の貧乏と見るかで、物語は180度異なる。

ふつう、貧乏は「火」の貧乏と見られていて、これから生きようとする人にとって、ふつう以下の生活は火で焼くがごとく、欲望が燃えつのる生活となる。火の車などという言葉もあるくらいだ。渇望が生じ、不足している物に対して、どうしても仕方ない必要性が生じてしまうのだ。本人にとって、無いことは恥であり、どうしようもない貧乏状態である。

これに対して、「風」の貧乏が日本人の中にはあって、とくに俳人たちの伝統の中で培われてきている。長野県に住んでいたこともあって、通っていた幼稚園の方針で小林一茶の俳句を300ほど覚えさせられたことがあった。そのときに、このような生き方をすこし学んだ気がする。風のごとくに移動して、自らが互酬の媒体となって、地方を渡り歩くのだ。それには、身軽でいないといけないので、最小限の物しか必要ないのだ。

妻が吉村昭の『海も暮れきる』を図書館から借りてきて部屋にあったので、読ませてもらった。日が暮れるばかりか、空や海までも、暮れ切ってしまうほどに、極限の生活があり得るということだ。俳人放哉が最後の8カ月を小豆島で暮らした生活を描いた作品だ。その家の前に建てられた碑に刻まれている「いれものがない両手でうける」がすべてのここでの生活を表していると思う。


風のように移動できなくなった俳人は、最後には、海に辿り着く。友人に住みたい場所の条件の最後に「ソレカラ、スグ、ソバニ海ガアルト、尤ヨイ」という希望を出していた。なぜなら、「・・・海を見ていると、暖かく抱擁されているようなやわらいだ気持になる。海を眼にして祈りの安息が、どのような心の動きから発しているのか、かれは知っていた。それは、死を願えば海に歩いて入っていくだけでかなえられるからであり、いつでも自分の肉体を受け入れてくれる海が身近にあるということに、深い安らぎを感じていた。」からであった。「かれは海を見るのが好きであった。」つまりは、「水」貧乏ということもあるのでないかと思われるが、ここまできてしまうと、精神的には、むしろ贅沢の考えと言われてしまうかもし� ��ない。

高浪打ちかへす砂浜に一人を投げ出す    放哉

海から帰ってしばらくすると、空がにわかにかき曇り、夜まで土砂降りの雨となった。容赦なく降り注ぐ雨水は、小豆島ならば、どのような降りになったであろうか。



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