Franklin Delano Roosevelt ( 1882 - 1945 )
フランクリン・D・ルーズベルトは、民主党出身の第32代アメリカ大統領で、小児麻痺による重度な障害を持ち、アメリカ史上唯一、4選された大統領で、彼もまたフリーメーソンでありました。
彼が入会したのは、1911年10月11日に、Holland Lodge No.8, New York ですが、1934年4月13日には、ホワイトハウスで、Order of DeMolay の最初のHonorary(名誉) Grand Masterとなっています。
彼は、親日家で、テディベアでも有名な、セオドア・ルーズベルトJr.大統領(共和党)の姪と結婚しています。
フリーメーソン-102 セオドア・ルーズベルト
ルーズベルト家は、1649年にオランダのハールレムからニュー・アムステルダム(現在のニューヨーク)に移住したクラウス・M・ローゼンベルツに始まるユダヤ系の家系で、18世紀にルーズベルト家は、「 ハイドバーグ・ルーズベルト家 (民主党支持) 」 と 「 オイスター・ベイ・ルーズベルト家 (共和党支持) 」 の二つに分かれました。
フランクリン・D・ルーズベルトは前者の家系で、セオドア・ルーズベルトJr. は後者の
家系にあたります。
ルーズベルト家とその親族は、1840年のアヘン戦争の頃から、中国と阿片貿易を行い、富を得た関係で、フランクリン・D・ルーズベルトは親中派であり、中国を侵略し、そのアヘン利権を奪った日本に対しては、敵意をむき出しにしていました。
フリーメーソン-98 安室奈美恵
フリーメーソン-73 三井・三菱の阿片ビジネス
フリーメーソン-57 龍馬暗殺 〜幕末の政情〜
フリーメーソン-58 坂本龍馬暗殺 〜真犯人〜
中国にはじめてフリーメーソンのロッジができたのは、アヘン戦争に勝利したイギリスが1842年に香港を植民地とした2年後の1844年に、イングランド系フリーメーソンである「ロイヤル・サセックス結社」第501号が香港に開設されたのが始まりです。
大恐慌の5の原因
その後、天京(南京)を占領していた洪秀全を首領とする「太平天国」軍が、上海を攻撃しようとした動きがありましたが、これに対抗し 「太平天国の乱」は常勝将軍のフリーメーソンであるゴルドンによって鎮圧され、これを機に、上海にはフリーメーソン組織が激増しています。
第一次世界大戦までは、フリーメーソンの勢力図は、イギリス系が強く、中国を南北に2分していました。 華北・華中・満州は、上海・天津・北京を中心とした 「 イングランド系北支地区大結社 」が担当し、上海に本部を構えましたが、麻薬王として有名な上海のサッスーン財閥を創設したD・E・サッスーンがフリーメーソン首脳の一人であります。
フリーメーソン-29 � �ッスーン財閥
フリーメーソン-30 ジャーディン・マセソン商会
フリーメーソン-3 香港上海銀行
しかしながら、第一次世界大戦後は、イギリスの海外植民地の力が弱まり、アメリカが台頭し、中国におけるアメリカ系フリーメーソンの勢力が強くなってきました。
当時アメリカは、満州方面に注目しており、中国大陸への進出を考えており、同時に北中国でのフリーメーソン組織も活発化してゆきました。
先ず1916年に北京でマサチューセッツ系「インターナショナル結社」が発足、続いて大連の「大連結社」、天津の「カレドニア結社」、奉天の「ハイクス記念結社」、ハルピンの「スンガリー結社」、また「パゴダ結社」は 張作霖と長男の張学良を加盟させ、「反日親米」を謀らせた事で有名であます。
1934年、中国側のフリーメーソンの協力を得て、「国際ユダヤ財閥会議」がロンドンで開かれ、「国家最� �経済顧問」であるリースロス博士(フリーメーソン会員のユダヤ人)等はそこで、中国経済改革の為の経済政策を決めました。
これは、上海を基点とする中国横断鉄道計画、沿線各地の開発など、中国利権を求めて イギリスのサッスーン財閥、フランスのオットー・ウルフ財閥、アメリカのユダヤ系各財閥が参加する事が決定し、日本にも参加を求める為、リースロス博士を団長とする経済使節団が派遣されましたが、国際感覚の無い日本政府は一蹴してしまいました。
ニューヨークはどこにあるの
一方で、フリーメーソンの蒋介石はリースロス案に直ちに乗り、「弊制改革」は急速に実現し1935年11月4日から蒋介石は「銀本位制改革法令」を発布して、たちまち「中国農工銀行」を発行の紙幣は国立銀行発行の法廷通貨と同等に承認され、銀貨の大部分が英米系財閥に集まり、彼らは銀相場操作で6割以上の利益を挙げました。
また、蒋介石政権もこれを軍用金として利用し、浙江財閥を率いる宋子文も大いに儲けたのでありました。
イギリス、アメリカ共に満州進出に興味をしめしており、日露戦争後、鉄道王ハリマン(フリーメーソン会員で、ロシア革命に資金援助)が満州での鉄道建設や各種開発を重視し、満鉄の共同管理を提案した事が有りました� �、日本に拒否されてしまいました。
アメリカが「門戸開放」を主張して満州開発への参加を希望した事から、日米関係が冷却化し、「日米開戦」の直接原因も、米国からの「日本勢力の満州からの撤退要求」で有った事は周知の通りであります。
ここに、フリーメーソンつながりで、蒋介石とアメリカの民主党(ユダヤ系ロスチャイルド財閥がバック)の関係は蜜となり日本を敵視するようになり、第二次世界大戦も、今日の経済戦争でも、アメリカの民主党は日本に厳しく対応してくるようになったのです。
フリーメーソン-89 蒋介石
フリーメーソン-99 李香蘭
また、当時の国際感覚のない日本人政治家たちは、1920年に孫文にスキをつかれ、孫文はアメリカ、イギリス、フランスに、工作活動を行い、日本を弱体化させるべく、日英同盟を破棄させるように諜報活動を行い、この流れで、1921年(大正10年)にワシントン会議が開かれ、日英同盟は廃止が決定されました。
日英同盟から学ぶ
明治時代から、日本とイギリス(ユダヤ系ロスチャイルド財閥がバック)は蜜月の関係にありましたが、国際感覚の無いお馬鹿な政治家により、イギリスやロスチャイルドを敵に回してしまい、その後、大変な目に合わされてしまったのです。
ナイアガラの滝地質
そして、この麻薬とフリーメーソンつながりで、フリーメーソンの蒋介石と、その妻でフリーメーソンの宋美齢が、日本を倒すために、フリーメーソンのルーズベルトに、第二次
世界大戦への参戦を何度もお願いし、アメリカは参戦を決意しました。
さらに、フリーメーソンで、ロスチャイルドの子飼いである、イギリスのチャーチル首相ががっちり手を組み、日本包囲網を築き上げたのです。
カイロ会談での、蒋介石(中)、ルーズベルト大統領(米)、チャーチル首相(英)
そして、1943年11月エジプトのカイロ会談で、アジアの戦後処理について、蒋介石は 「九州が欲しい」 と要求しています。 我々は、耳にタコができるほど聞かされた、「蒋介石は日本に対し何ら賠償を要求しなかった」 というのは、戦勝国側と、戦いに敗れたら敵側に尻尾をふる、情けないアホの日本の反日左翼主義者たちのデマなのです。
団塊世代と左翼思想
何故、九州を奪われなかったのかと言えば、親日派で反ソ連のアメリカの共和党が強固に反対してくれたおかげで、それどころかフーバー元大統領に至っては、「 日本はアジア防共の安定勢力であり、戦後も朝鮮と台湾の日本領有を認めるべきだ 」 と主張していたぐらいなのであります。
日本を敵視する、フランクリン・D・ルーズベルトは、ナチスばりの、「日本人強制収容所」 をつくり、約12万人もの民間人が財産と市民権を奪われて、カリフォルニア州からルイジアナ州までに広がる10数ヶ所の強制収容所に収容されました。
そして、原子爆弾を日本に落とすために、原子爆弾の開発を進めた 「マンハッタン計画」
を推し進めたのも、このフランクリン・D・ルーズベルト大統領であります。 しかしながら、1945年4月12日に脳卒中で死亡し、副大統領のトルーマンが大統領に昇格したため、実際に原爆投下の指示を出したのは、トルーマン大統領です。
フランクリン・D・ルーズベルトが亡くなった時、ドイツのアドルフ・ヒトラーが公式に
ルーズベルトを罵倒し、死を喜ぶ声明を発した一方、
日本政府の鈴木貫太郎内閣は、敵国であったにも拘わらず、同盟通信社の短波放送で、ルーズベルトの死を悼む、次の内容の声明を発表しました。
「 私は、深い哀悼の意をアメリカ国民に送るものであります 」
ルーズベルト 享年63歳
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