もちろん戦争は外交の延長にあるが、為政者は戦争を避けたいと考える。勝っても負けても苦しい目にあう、割りに合わないものだから。では、"なぜ"戦争が起きるのか?ピューリッツァーを受賞した「八月の砲声」を読むと、この設問が誤っていることに気づく。
どんな国も戦争を起こすようなバカなまねはしたくないはず。「だが、"なぜ"戦争が起きるのか」…この問いからは、戦争が起きる理由をたどれない。正しくは、"なぜ"戦争をしたかではなく、"どのように"戦争に至ったのか、になる。
なぜなら、戦争の理由を追求すると、イデオロギーになるから。"なぜ"をつきつめると、「悪いやつ」を探すことになる。人に限らず、悪の帝国や党派だったり、組織的収奪や不均衡といった現象もそうだ。むろんそれは、原因� �一つかもしれない。しかし、そこに説明を求めると、主義主張がからんでくる(対戦国で「原因」は180度反転する)。何を信じるかによって、原因が取捨選択され、勝者の主義によって原因が決められる。そして、その"なぜ"は次の戦う相手となるのだ。
いっぽう、戦争のプロセスに着目すると、事実の話になる。宗教上の軋轢や、貿易摩擦、異文化の緊張がどのように高まっていったか、どんな交渉が、どう決裂したかは、事実の話だ。もちろん事実のどの側面を拡大し、どこを過小評価するかは、主義主張の圧力にさらされるかもしれない。だが、それは事実を吟味する俎上に(いったんは)乗せられる。
ルーズベルトは大恐慌に取り組むために何をした
本書は、"どのように"第一次世界大戦が始まったか、開戦前後の1ヶ月間の政治と軍事の全体像を検証・分析する。経済的に依存しあった大国が、どんな誤算と過信に基づいて、「実行不可能な戦争」に突入していったのかが、克明に記されている。
「サラエボで皇太子が殺されたから」「三国同盟・三国協商」といった後付けの知識で説明するのなら、単なる暗記科目になる。後知恵だから当人たちの「誤算」が愚かしく見えるかもしれない。だが、当時リアルタイムで決断を下したとき、状況は今ほど見えていなかった。乏しい判断材料、緊迫する展開、伝わらない情報の中で、どのように戦争に向かったかは、どうしても知� ��必要がある。
たとえば、当時でも反戦団体はあった。ドイツの脅威に対し、英仏が協調して事に当たる計画が明るみに出たとき、反戦グループは猛然と反対した。しかし、英仏の大使で交換された"書簡"は、省略法の傑作というべきものだったという。要するに、どうとでもとれる文書だったのだ。
それはジェファーソン記念館に何を言っています
英仏共同作戦計画は、英国には実戦には"介入しない"という究極の合法的な虚構を除けば、フランスがロシアと、ドイツがオーストリアと用意していた共同作戦計画となんら変わるとこはなかった。英国の閣僚や議員の中でその方針を好まないものは、ただ目をとじて、催眠術にでもかかったような態度で、その虚構を信じつづけていた。この戦争計画は、サラエボに銃声が響く9年前から作成され、錬られ、政策として組み込まれていた。しかし、反戦グループは英国の不介入が謳ってある理由で、フランスは協同計画を公的に認めたという理由で、満足したのだ。その現実を、見たいように見、思いたいように思い込んだ。こ� ��を愚挙と見るか、カエサルの箴言として戒めるかは、読み手に任される。
誰も好き好んで戦争を始めない。いかに戦争を回避しようとしていたか、各国の努力が描かれている。英国は、ベルギーが破壊されるまで動こうとはしなかった。自国の参戦を道義的に正しいものにするためだ。フランスは、国境に展開した戦線を、いったん引かせている。「ドイツが先に侵略した」既成事実を作るためだ。ドイツですら、外交上の方便を用いて、ロシアに先攻させようとした。子どものケンカの「ボクは悪くない、あいつが先にやったんだ」を巨大にしたやつだね。
大衆は? あれだけ悲惨な戦争に反対しなかったのか? 英仏の大衆は、現状を知らされてなかったという。作戦が敵に漏れるのを防ぐため、作戦本部の発表は不明瞭そのものだったそうな。これは「愛国的沈黙」と呼ばれ、報道陣は現場からシャットアウトされ、都合の良いことしか書かれなかったという。自粛? 翼賛? どこかで聞いたことがあるなぁと思いきや、作戦本部は日本軍のやり方を採用したというのだ。今ならネットがあるから大丈夫だろうと思いきや、政府が本気を出したら、ネットの方が遮断が容易かもしれないね。
ミシガン州のベトナム戦争で亡くなった人のリスト
戦争を回避しえない、point of no return を超えるとき、必ず吐かれるセリフがある。軍事計画が政治を左右する際、必ず使われる文句だ。もちろん、国や背景は違えども、英、仏、独で共通してこう述べられる―――「一度決定されたことは、変更してはなりません」―――これは、モルトケがカイゼルに直言したセリフで、独軍が犯した全ての過失の起因となり、ベルギー侵略を決行させ、米国に対する潜水艦作戦を遂行させた寸鉄だ。だがこれと同じ文句を、チャーチルが、ウィルソンが、ジョフルがそれぞれの立場を背負って吐く。
とかく世間ではすでにある計画を推進しようという熱意のほうが、それを変えようとする衝動よりも強いものだ。カイゼルはモルトケの計画を、またキッチナーはヘンリィ・ウィルソンの計画を、ランルザックはジョフルの� �画を変えることはできなかった。いったん立てられた計画は、たとえ立案者が死んだとしても、粛々と遂行される。計画を「変える」ほうが何倍もエネルギーを必要とするからね。ここから第二次大戦やベトナム、アフガニスタンを考えることはできる。だが、もっと引きつけて読んでも面白い。
「これだけ先行投資しているから…」
「もうプロジェクトが発動しているので…」
「ローンチされてしまったから…」
「すでに人的資源はアサインされた」
「もう締め切りは過ぎているんですよ!」
わたしが見てきたデスマーチ・プロジェクトで、後に誤りだったことが分かる"判断"を後押しするセリフが、「決められたことなので、もう変えられません」になる。内心では、「おかしい」「まずいぞ」と思いつつ、ゴーサインを出すとき、いつも背後からこの言葉で撃たれている。面白いのは、狙撃者は、この「決められたこと」の当事者でないところ。必ず伝聞の形で告げられるところだ。
これは一貫性の罠やね。小さいyesを積み重ねると、NOと言うのが難しくなる心理だ。説得する技術を徹底解説した「プロパガンダ」を思い出す(悪用厳禁!「プロパガンダ」)。これに、責任者不在の計画だけが進行すると、立派なデスマーチになる。世界大戦とデスマを一緒くたにするのは乱暴かもしれないが、「どのようにコントロール不能となるのか」と「そのとき、どんな大言がまかり通っていたか」はソックリだ。
計画の不備や判断の誤りについて、後から指摘するのはたやすい。予想と現実のギャップに狼狽する将校たちの様子はそのままドラマになる。無謀な突撃をくり返し、死人の山を築き、失敗を失敗を認めることにかけては驚くほど無能だったウィルソン。自分が招いた事態の責任を指揮官に負わせ、� ��んどん担当者を罷免することで自分を守りぬいたジョフル。今から見ると愚の骨頂に見えることも、そのときは絶対の自信をもって下した"英断"なのだ。
著者は、指導者が無能だったせいとか、ドイツが悪者だからといった視点を混ぜない。「○○すべきだった」などという後付けの賢しらは一切ない。無能な司令官が「どのように」戦況を泥沼化していったか、独軍が見せしめとしてやらかした虐殺が、国際世論に「どのように」影響を与えたかを、淡々と、意図的に感情を排して描く。それがいっそう、凄惨さを際立たせている。「誤った判断」が下されるとき、そこに楽観論、情報の錯誤、個人の感受性が「どのように」影響を与えていたかを知ることができる。
戦争の背後にある、欺瞞や背信は、「なぜ」ではなく� ��どのように」という問いであぶりだす。そして、いつNOと言ってもいいのだということに気づく。戦争を避けるためには、戦争を知らなければならない。
戦争を知るためのスゴ本、ガツンと読むべし。
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本書は、スゴ本オフ「戦争」に伴い、oyajidon さんのオススメで知りました。oyajidon さん、ありがとうございます。おかげで、すばらしい本に出会えました。「どのように」という切口から、次はハルバースタム「ベスト&ブライテスト」にしようかと。
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